すべては無である。なぜか。

禅の《絶対無》の深遠さには遠く及びませんが、僕の「すべては無である」という考え方について述べてみようと思います。

台風というモノはない

「ゆく川の流れは絶えずして」しかも、もとの水ではありませんね。分子という概念のなかった平安人も、川の流れが一定でも、それを構成する水は交替し続けていることは容易に想像がついたのでしょう。
これと同じ話ですが、もう少しわかりやすくするため台風の話をします。
台風は、地上(海上)の暖かい空気が渦を巻いて上昇する現象です。川と同じで、それを構成している水分子も空気の分子も、すごい勢いで入れ替わっています。しかも川と違って、台風は時々刻々と位置を変えています。
するとどうでしょう、ある台風と、その台風の1時間後を比べれば、構成する分子も全然違う、位置も全然違うわけで、「これが同じモノだ」と識別できる要素はありません。それなのに「台風4号」などと同じ実体であるかのように人間は名前を付けます。
人間が「4号」と命名して識別する根拠は、現象が連続的に続いていることの一点にあります。
つまり、連続的に起きている現象をあたかもモノであるかのように捉えているわけです。実際にはモノでないのは明らかですね。水分子も空気分子も、自分が台風に参加している意識しているわけもなく、周囲の圧力に押し流されているだけです。

人間だって現象

台風がモノでないのは、わりと当然なことです。
さて一般的な常識は人間の個体は明らかに物体です。「人間をモノ扱いするな」とかそういう話ではなくてですからね。
では、ある30歳の人が、30年前のある赤ん坊と同一人物であるというのは、どうして言えるのでしょう? 言うまでもなく、構成している分子はとっくの昔にほぼすべて交替しているはずです。絶えず位置が変わっているのも台風と同じですね。
もちろん実用的には、容姿だとか指紋なんかで個人を識別することはそれほど困っていないのですが、根本的にある人が昔のある人と同一人物である理由は、容姿でも指紋でもありません。
台風と同じく、生命活動が時間的空間的に連続しているから、です。
しかも考えてみてください。人間を構成している要素に特別なものはありません。炭素・水素・酸素・窒素、その他の原子が組み合わさって、エネルギーを消費しながら自己を維持している集合体です。台風と同じく、現象なのです。

その構成要素だって現象

時間的空間的に連続している現象に対して、知性が勝手に「台風」「人間」と呼び名を与えてモノ扱いしているのだ、ということです。では、それを構成している分子や原子ならモノだと言えるのか、という問題があります。
それについては量子力学が答えを出してくれています。素粒子も現象なのです。
素粒子同士は、種類が同じなら個体を区別することができません。技術的に無理なのではなく、原理的に同質なのです。これは、空間に素粒子Aが「存在する」というよりは、空間のこの位置は「素粒子Aがあるという性質を持つ」という空間の性状として捉えられることを意味します。
ミクロの世界で、空間は電光掲示板のようなもので、存在する粒子は掲示板上のランプの点灯でしかありません。現象なのです。

現象は架空

この世で、モノだと思っていたものはすべて現象としか捉えられなくなりました。
しかし現象というのもあやふやなものです。台風の例えでも、水分子や空気の分子はあくまで、周囲の圧力と熱、重力、コリオリ力、潮汐力などに動かされていただけです。分子達は物理法則に従って淡々と動いているだけなのを、知性が勝手に「この現象を台風と呼ぶ」と概念づけてしまっただけ。
もう少し一般的に言うと、この世の物理的な運動の中に特徴的なカタチをみつけたら、知性はそれを現象と呼んでしまうのです。そして、現象が時間的空間的に連続しているとそれをモノとみなしてしまう。現象もモノも、知性が勝手に定義した架空の存在なのです。

イデア論の誘惑

現象もモノも実体がない、そのことは、ある法則を思い出すと飲み込みやすいかもしれません。
「例外のないルールはない」
ルールをどううまく定めても、どうしても例外が生じてしまう。それは現象というものが知性の勝手に決めたものであることと密接に関わっています。ルールは現象に対して定められています。「人を殺したら斬首」なんて古代のルール、簡単に見えますが、運用はそう簡単じゃありません。人殺しという行為は現象です。そして、現象はあくまで、変化の特徴的な部分に名前を付けただけのもの。完全な定義などできないのです。それでも判決は下さないといけないので困った例が出てくる。あげくに、「未必の故意」みたいなさらに複雑な概念を定義していく必要が出てきます。そういう積み重ねをしても、やはり判決に困る例に事欠かないのはご存じの通り。
本来架空のものである現象を扱おうとするから、完全な定義付けができない、それが例外のないルールを作れない根本原因と言えます。
いや、モノにも現象にも本来完全な定義があるはずだ、なきゃおかしい、という考えから発展したのが古代ギリシアのイデア論でしょう。モノのイデア、はまあいいとして、善のイデアまで定義しようとしてしまいました。善の定義なんて無理だろうとは、古代人でも気付かないわけはなかったと思うのですが。
しかし彼らは、実体から離れられませんでした。

それでも僕らは物質界で生きている

こんな、すべてを無に帰すようなことを考えていても、お腹は空くわけでお野菜買ってきてごはん作らなきゃいけません。物質のすべてを否定しながら物質界で生きている、また楽しいことじゃありませんか。