「春に」
この気持ちはなんだろう 目に見えないエネルギーの流れが 大地からあしのうらを伝わって 僕の腹へ胸へそうしてのどへ 声にならいさけびとなってこみあげる この気持ちはなんだろう 枝の先のふくらんだ新芽が心をつつく よろこびだ しかしかなしみでもある いらだちだ しかもやすらぎがある あこがれだ そしていかりがかくれている 心のダムにせきとめられ よどみ渦まきせめぎあい 今あふれようとする この気持ちはなんだろう あの空のあの青に手をひたしたい まだ会ったことのないすべての人と 会ってみたい話をしてみたい 明日とあさってが一度にくるといい 僕はもどかしい 地平線のかなたへと歩きつづけたい そのくせこの草の上でじっとしていたい 大声で誰かをよびたい そのくせひとりでだまっていたい この気持ちはなんだろう
歌の中では「この気持ちは何だろう」とこれでもかと言うくらいに繰り返すんだけど、もとの詩ではこのフレーズは4回しかでてきません。当然、繰り返されるこのフレーズがこの曲を読み解くキーワードになります。
そもそも、同じフレーズが詩の中に何回も出てきて、それらが全部同じ意味のわけはない。それぞれが違う意味を持っていてしかるべきです。
じゃあそもそも「この気持ち」は何なのか。春は生物が動物も植物も活動をはじめる季節。活動をはじめる力の元は本能的な年間リズムです。人間だって例外じゃなく、肉体も精神も活動へと突き動かされます。でも、そういう動物的な、本能的なリズムの存在を忘れていると、春という季節の到来が自分にもたらすものにただ驚くばかり。それが「この気持ち」でしょう。
第一段の「この気持ちは何だろう」は活動力への新鮮な驚き、体感です。
今度はそれがなにものなのかとらえたい。でもそれは言葉にしようとすると矛盾だらけ。それでいて、その高まりは抑えきれるものではない。これが第二段の「この気持ちは何だろう」です。考えているのです。
でも、考えたってわかるわけがない。本能なんだから。それに気付くとすべてを受容することができます。今何がしたいのか。あるがままの気持ちをとらえればいい。それが三段目。そう、最後の「この気持ちは何だろう」は疑問じゃない。すでにすべてを受容し、心で理解した会心の「何だろう」なのです。
「春に」を歌うポイントはまさに、このすべてを受容して「この気持ちがわかったよ」まで持って行くことでしょう。