「春に」

この気持ちはなんだろう
目に見えないエネルギーの流れが
大地からあしのうらを伝わって
僕の腹へ胸へそうしてのどへ
声にならいさけびとなってこみあげる
この気持ちはなんだろう
枝の先のふくらんだ新芽が心をつつく
よろこびだ しかしかなしみでもある
いらだちだ しかもやすらぎがある
あこがれだ そしていかりがかくれている
心のダムにせきとめられ
よどみ渦まきせめぎあい
今あふれようとする

    この気持ちはなんだろう
    あの空のあの青に手をひたしたい
    まだ会ったことのないすべての人と
    会ってみたい話をしてみたい
    明日とあさってが一度にくるといい
    僕はもどかしい
    地平線のかなたへと歩きつづけたい
    そのくせこの草の上でじっとしていたい
    大声で誰かをよびたい
    そのくせひとりでだまっていたい
    この気持ちはなんだろう
曲つき
http://momo-mid.com/mu_title/haruni.htm

歌の中では「この気持ちは何だろう」とこれでもかと言うくらいに繰り返すんだけど、もとの詩ではこのフレーズは4回しかでてきません。当然、繰り返されるこのフレーズがこの曲を読み解くキーワードになります。
そもそも、同じフレーズが詩の中に何回も出てきて、それらが全部同じ意味のわけはない。それぞれが違う意味を持っていてしかるべきです。
じゃあそもそも「この気持ち」は何なのか。春は生物が動物も植物も活動をはじめる季節。活動をはじめる力の元は本能的な年間リズムです。人間だって例外じゃなく、肉体も精神も活動へと突き動かされます。でも、そういう動物的な、本能的なリズムの存在を忘れていると、春という季節の到来が自分にもたらすものにただ驚くばかり。それが「この気持ち」でしょう。
第一段の「この気持ちは何だろう」は活動力への新鮮な驚き、体感です。
今度はそれがなにものなのかとらえたい。でもそれは言葉にしようとすると矛盾だらけ。それでいて、その高まりは抑えきれるものではない。これが第二段の「この気持ちは何だろう」です。考えているのです。
でも、考えたってわかるわけがない。本能なんだから。それに気付くとすべてを受容することができます。今何がしたいのか。あるがままの気持ちをとらえればいい。それが三段目。そう、最後の「この気持ちは何だろう」は疑問じゃない。すでにすべてを受容し、心で理解した会心の「何だろう」なのです。
「春に」を歌うポイントはまさに、このすべてを受容して「この気持ちがわかったよ」まで持って行くことでしょう。