スキルアップ―レベルとスペシャリティ

流動化しすぎた労働力への反省から、企業は育てた社員を財産とみる考え方に戻って来つつあるようです。
この考え方をする企業は、社員のスキルアップのためコストをかけようとしますし、社員もやはり自分の価値を上げたいのでスキルアップを望みます。これだけ見ると、スキルアップしたい社員とさせたい企業、利害は一致しているように見えます。
しかし、お互いにとって必要なスキルの内容は本質的に異なっている点に注意が必要です。利害は一致しているどころか、むしろ対立していると解釈する方が適当かもしれません。
どういう点ででしょうか。
企業にとって人材は資源ですから、資源として管理の枠組みに乗るようにスキルを持ってもらった方が扱い易くなります。ありていに言ってしまえば、社員を互換可能な部品にしたいのです。それは配置管理上の都合もありますが、雇用主と労働者の力関係において、雇用主を圧倒的に強くしてくれるという効果にもよります。
互換可能であれば、その社員がいなくなっても、極端な話過労でつぶれてしまっても、損失は定量的なものです。会社はそこまで困らないので、安心して負荷をかけることができる。
これに対して、労働者側が「自分だけの」スペシャリティを身につけていた場合力関係は逆転します。いなくなれば業務に支障が出るので、辞めさせるわけにも病気させるわけにもいかない。辞めそうになれば、報酬なり地位なり権限なりを提示して引き留めないといけません(やる気のある労働者にとって最も嬉しいのは権限でしょう。権限が足りなくて仕事が停滞するのはやる気を大いにそぐことです)。
資格の取得を会社が勧めてくるなら、それは管理できるスキルの枠組み上に乗せたいという意思です。「○○の取得者は□□人」と把握できますから。
これに対して、「△△のことだったらあいつに聞けば必ず解決する」といった強み、スペシャリティは資格試験などない代わりに参考書もなく、自力で開拓するしかない管理不能のスキルです。これが労働者の権利を十二分に主張するために必要不可欠な武器となるのです*1

*1:ただし、あまりにも代替不可能なスペシャリティは自分の首を絞めることになるのでご用心。「自分がいないと業務のクオリティが落ちる」程度ならいいのですが、「自分がいないと業務が完全に停止する」程だと、休むこともできなくなりますね。