「悟り」は意味論的に面白い

「悟りを開く」という言葉は誰でもどこかで聞いたことがあるながら、どういう意味なのかはよくわからずに使っていることが多い言葉でしょう。僕も仏教徒ではないので意味をわかっていませんが、どういうことなのかウィキペディアで調べてみました。

悟りとは、簡単にいうと「仏教の究極目的で、真理に目覚めること」

真理(法)に目覚めること。迷いの反対。さとりは仏教の究極目的であり、悟るためにさまざまな修行が説かれ実践される。

まず、概論としては真理に目覚めることなんですね。まあ、なんとなく持っていたイメージとはそんなに違わない。
でもこれだけでは説明したことになりません。じゃあ何に気づけばそれは真理に目覚めたと言うことになるのか? そこまで説明しないと「悟り」を説明できていません。そうでないと、「自分はもう世界の真理に気づいてるよ。だからもう悟りを開いてるんだ!」と誰でも言えてしまう。
ところが、これは説明がほぼ不可能なのです。
言葉で説明して理解できてしまうものなら、それは読み終わった時点で悟りを開いてしまったことになり、それを究極目的とする仏教は無意味なものになってしまう。
つまり悟りは、それが何かを説明しようとしたら、それの意義がなくなってしまうという、ちょっと自己言及的な面白さを持った概念だということになります。

悟る内容は、思考から離れること

さて、説明しようがないというだけではつまらないので、その悟る内容のアウトラインだけでものぞいてみましょう。

凡夫(ぼんぶ)が煩悩(ぼんのう)に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻(りんね)を続けているのは、それは何事にも分別(ふんべつ)の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとし、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱(げだつ)しなければならない、その方法は事物を如実(にょじつ)に観察(かんざつ)することで実現する。これが真理を悟ることであり、そこには思考がなく、言葉もない

悟りの境地には思考もなく言葉もない。逆に悟れないのは世界を考えて理解しようとしている結果であると。
無こそが真理だといわれてもなんなんだと言いたくなる向きもあるでしょうが、これはまさに人間の思考の最大の弱点をピンポイントで指摘しています。事物に意味を持たせ、さらに多くの場合は名前を付けないと思考の対象にできないというのがその弱点。
別に悟りを開かないまでも、自分の思考は常に「意味」に縛り付けられているんだと認識しておくのは有意義でしょう。