生きるとは、考えることができるということだ

日本人ってほとんどの人が無宗教だから、宗教に帰依していないことは大して特別なことではないんだけど、世界の中で見ると無宗教であることの方がよっぽど特別だったりします。
だから改めて考えてみました、自分が信仰を持たない理由。

それには、まず宗教ってなんなのか、それをはっきりさせておくことが大事です。

何かを教えを広めているのが宗教か……違う。儒教は、普通は宗教とは言わないです。
教えている内容の守備範囲は、いろんな宗教の教えとだいぶ重なっているんだけど。
(ある決定的な一点で違うと思っています。後述。)

神様とか、超自然的なものへの信仰を教えていれば宗教か。
まあそうなんだけど、それが本質じゃないような気がするのです。
例えば、共産党の思想はよく宗教的だって言われる。もし超自然が宗教の条件なら、唯物論がちがちの共産党の、どの辺が宗教的だっての?

僕の考えを述べましょう。

ある思想・啓蒙活動が宗教である条件は、世界の成り立ちについての見方を教えていることです。
世界の成り立ちについての見方。
世界観、と言っちゃってもいいかもしれない。宗教の中では「真理」と呼ばれていることが多いような気がします。
僕は、個人的な用語ですが「世界モデル」と呼んでいます。

儒教が人生のいろいろなことについて教えていながらも宗教的でないのは、「世界とはどういう風にできているか」という問題については触れていないからです。
共産主義が宗教っぽいのは、「人間社会とはこういう構造だ、歴史とはこういう構造だ」というのを徹底的に教えているからです。
(「世界とは」ではなく「人間界とは」に限定していることで、超自然的存在を設定せずに済んでいるのでしょう)

さて、その上で。

僕たちは毎日の生活の中で、自分を取り巻く世界に干渉し、また世界から干渉されています。
世界とはどういうものか、その世界モデルをみんな自分の中に持っているわけですが、毎日の相互作用の中で、モデルを修正しながら、世界とはどういうものかとらえ続けています。

生きるとは、考えることができるということなのです。
(世界は一冊の本!)

僕が20年以上かけて、毎日修正しながら構築してきた自分だけの世界モデル。これは、今後も毎日の生活の中でさらに書き替えられていくことでしょう。
もうわかりますね?
世界モデルを教えてくれるもの、すなわち宗教に帰依することは、これまで生きてきたこと、そして今生きていることの放棄でしかありません。

一個人が触れられる世界なんて本当の世界のほんの片隅だから、限られているし偏っている。
作った世界モデルは歪んでいるに決まっているんです。それでも、教えられた世界モデルに比べればはるかに有意義だと思うのです。
だって教えられた世界なんて、自分のいる世界とは別物ですから。

結果として、僕はいかなる宗教にも帰依しません。同じく、独特の世界観を持つ思想団体に傾倒することもありません。そして、各個人が世界観を持つことを大事だと思う以上、自分が教祖さまになることもないでしょう。