国って何だろうね

もう旬を過ぎた話題になるけど、教育要領に愛国心を盛り込もうというあれ、おいらは反対の立場を取ってきました。
いや何もね、「戦争への道が・・・」とか言い出したいわけじゃない。公教育で愛国教育をすることに反対する理由は痛さというか気持ち悪さにあります。
そもそもがよ、「国を愛せよ」と国自身が言うわけですよ、自分のこと愛さないと成績評価下げるぞなんて、きもっ! 愛されたければ愛されるような政治しなさいっての。(それにはまずタバコ増税だね。1箱1500円くらいにしてくれればもっと愛してあげるんだけど!)
もっとも、愛する対象の「国」というのが日本政府のこととは限らないじゃないかという解釈もできるんだけど・・・そもそも「国を愛する心」の「国」が地誌的な地域のことなのか、人文地理学的な(歴史や文化をひっくるめての)「くに」のことなのか、国家のことなのか、はたまた民族のことなのか、曖昧にされていること自体にいやらしさを感じます。
さてここで、愛国心ってのは奨励してまで誰もに持たせるべきものなんだっけ?
別に奨励しなくたって、放っておけばね、誰でも自分の国にはひいきになるもんです。F組グループリーグで日本にオーストラリアが勝ったら、別に日本チームの誰と知り合いなわけでなくても、日本人のほとんどは悲しくなるわけです。(サッカーのルール知らないおいらも豪州戦は見ちゃったよ。どっちが勝ってるのかよくわからなかったけど!)
そうやって自分の国に、自分の国だからというだけで愛着を持つのは当たり前のことで、わざわざ褒められることでも、わざわざ誇るべきことでもないですよね。
逆に、自分の国なんだけどたいして愛着がもてないや、というのも別に非難されることでも修正されるべきことでもない。「珍しいね」ってところでしょう。
そして、愛国心を持つこと(自然に持ってしまうこと)には大きな弊害があると考えています。思考や判断が強く影響を受けてしまうことですね。
例えば、真珠湾攻撃と原爆投下、どっちの方が悪いことかと問われれば日本人だったらまず無差別攻撃の原爆投下の方がずっと悪いこととしがちでしょう。米国人だったら国際ルール無視の真珠湾攻撃をむしろ悪とすることが多いようです。
肉親や知人をどちらかの攻撃で失っているとかならまだしも、大抵の人はどちらの事件の当事者でもないのに自分の国の方にひいきする形で考えていることになります。言うまでもなくおいらも原爆投下の方が圧倒的に悪であると考えています。
判断が影響されてしまっているわけ。この影響を取り除くのが難しい。もし自分が、今と同じ思考回路のまま太平洋戦争と無関係な国の住人だったらどう考えているだろうか、ってのは面白い思考ゲームだけど、ちょっと答えは出ませんね。
まあ、自分一人の思考の自由度が縛られるだけならまだいい。でも、国民全体の思考の自由度が縛られるのは、野心を持った為政者にとって非常に有利な状況となります。愛国教育、それだけなら聞こえの良い言葉ですが、誰にとって有利になることを誰がすすめているのか、そこら辺をよく見ておく必要があります。